2014.7.18 小南 毅 記
早いもので昨年の同期会の時に岩大構内レストランでの昼食会で、
『来年の同期会は北海道でやろう』と満場一致で決議してから10ケ月経ち、
いよいよその同期会がやってくる。北海道の桜井氏のお骨折りで、
函館の“啄木亭”での開催が決まった。
湯の川温泉“啄木亭”とは啄木と何か所縁のあるホテルなのだろうか。
函館は啄木が渋民村から移り住んだ5月から明治32年9月15日の函館の大火に
合い小樽に引っ越すまでの131日間を幸せに暮らしていた所だ。
函館は私にとっては思い出深い街で、およそ40年あまり昔に新婚旅行で訪れたことがある・・・函館山からの眺めは良かったし、異国所緒溢れる教会(露西亜風?)を見学し、五稜郭へも行った。その時は5月初旬であったが、桜の花が咲き始めた頃であった・・・
五稜郭といえば明治新政府と榎本武陽率いる幕府軍とが戦ったところだ。
ここには新選組副長の土方歳三も参戦している。“壬生義士伝”の
吉村貫一郎の息子が、南部盛岡藩から単身函館の五稜郭へ向かったとあるが、
新選組の土方歳三に会って父親の最期の奮戦ぶりなどを聞くことができた
のであろうか・・・などと思いを巡らすのである。
この頃もやはり盛岡に所縁の石川啄木に興味を
寄せていたらしく、タクシーを使って大森浜海岸
の啄木像を観て、立待岬の啄木一族の墓を観て廻
った記憶がある。
そこで新婚旅行で撮った古いアルバムを
めくってみたら、すでにセピア色に色あせて
はいるが、確かに啄木像の前で撮った写真が
残っていて、その時の記憶が鮮明に蘇って来た。
ただ残念ながら、あの有名な短歌・・・
○函館の青柳町こそ悲しけれ 友の恋歌 やぐるまの花
この青柳町に行ったことが無いので、今回時間がとれたら訪ねてみたいものだと思っている。あの大火でも啄木の家は焼け残ったそうだが、当時の面影は残っているだろうか・・・
そして、函館以来の親友として啄木一家を経済的にも支えてくれた宮崎郁雨(大四郎)は、老舗の味噌醸造業を営んでいたそうであるが、今はどうなっているのか
・・・興味深々の街・函館なのである。
7月7日新宿三平での七夕の会で“スカイプ会議”をやるからとのメールが流れたので同日16時半ころスカイプで飛世さんをコールしてみた。何度かトライしたが、『ただいま留守にしています・・・』のメッセージが流れるだけで接続できませんでした。その内、突然に盛岡の伊藤さんがコールしてきたので、彼としばらく話をした。その時伊藤さんが、“立待岬の啄木の墓”に行ってみたいと言っていたので、私も本を取り出し『函館での啄木』を読み返してみた。
啄木は渋民村で代用教員をしていたが、子供が生まれ月給8円では暮らして行けない状況であったようだ。実は、啄木が盛岡中学を中退して上京していた頃、父親の一禎が住職を務める渋民村の宝徳寺の上納金を滞納して住職を罷免されていたのである。その後、啄木の父一禎は免責され宝徳寺への復職が期待されたが、渋民村住人の一部の反対にあい復職は実現しなかったのである。そんな背景の中、食ぶちを減らすために父親は家出をして野辺地の師僧の元に身を寄せた。そこで啄木も出稼ぎを決意したようである。その年の卒業式には啄木は自作の『別れの歌』を歌わせ好評を博したものの、新学期早々に『平田野のストライキ騒動』を引き起こし校長ともども免職になってしまったのである。そこで姉が嫁いだ山本千三郎氏が駅長をしていた小樽で妹を姉に預けて、啄木は函館に向かう計画を立てたのであった。
啄木は、この懐かしい故郷を離れる時の心境を短歌に残している・・・
○石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし
5月5日啄木は妹の光子を連れて青森から青函連絡船に乗り函館に向かった。そして6月中旬に弥生小学校の代用教員になり、その時の月給は12円であった。そして啄木は青柳町の和賀という小学校教諭宅の1間に住み、そこには函館の文学の仲間が集まってきたそうだ。
函館でも、やはり啄木は多感な青年で同僚の女教師に恋をした歌が残されている。
○かの声を最一度聴かば すっきりと 胸やはれむと今朝も思へる
この女教師(橘 智恵子)は声が実に美しかったそうだ・・・
そして7月には妻子を迎え、8月には母親も一緒に住むようになった。函館の青柳町での家賃は3円90銭と比較的安く、この家に妹も含め一家5人で暮らせるようになった。
○東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる
この歌は『一握の砂』の冒頭歌で函館での作と思われているが、実は盛岡中学時代に先生の引率で仲間と旅行して陸前高田松原で海水浴をした時の体験がもとになっているようだ。函館の大森浜には蟹はいないし、「東海の」という地形的な表現は函館にはないというが、高田松原で貝ひろいをしているとき蟹をみて啄木は喜んだという。当時は盛岡から一関まで汽車で行き、あとは歩いて気仙沼へ行き、啄木が初めて海を見たのは15歳の頃であった。
『一握の砂』以前の『あこがれ』に陸前高田松原で海水浴をした時の詩が詠われている。
塩満ちくれば穴にいり
潮落ちゆけば這ひ出でて
ひねもす横にあゆむなる
東の海の砂浜の
かしこき蟹よ、今此処に
不遇な歌人 石川啄木は人生を「砂」に象徴させたかったのであろうか・・・
○いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ
○頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず
○潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや
○ひと夜さに嵐来たりて築きたる この砂山は 何の墓ぞも
○砂山の裾によこたはる流木に あたり見まはし 物言ひてみる
○しらなみの寄せて騒げる 函館の大森浜に 思ひしことども
○砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日
さて、盛岡の伊藤さんが言っていた立待岬にどうして石川啄木一族の墓があるのだろうかと少し調べてみた。啄木は函館の青柳町にやっと家族5人で暮らし始めた。私も札幌の予備校に半年間通ったことがあるが、その時北海道の人は内地の人を大事にしてくれることを体験した。啄木も周りから暖かい親切を受け、彼の生涯の中でも数少ない幸せな時期(131日間)であったろうと思われる。取分け親友の宮崎郁雨からは経済的な支援も得て、「函館で死にたい」と言ったと伝わっている。郁雨も啄木に憧れ、啄木の妹“光子”を嫁に欲しいと申し入れたが啄木に断られ、節子婦人の妹“ふき子”と結婚している。
こうして縁者となった郁雨であるが、啄木が亡くなる前年の9月に郁雨が節子婦人宛てに送った一通の手紙から“郁雨と節子の不貞疑惑”が持ち上がり、啄木は郁雨との絶交を宣告してしまったのである。こうしたこともあり郁雨からの経済的な支援も途絶え、啄木は悲惨な最期を遂げることになる。その苦境を物語る節子婦人の記録した家計簿が残されている。
啄木は明治35年3月には母を亡くし、4月13日に肺結核で永眠した。 啄木は妻節子に早くお産して、京子を育ててくれと遺言をのこしたという。節子は間もなく次女・房子を生み、それから一年たらずで肺結核で啄木の後を追い、享年28歳で亡くなった。こうなると、どうして啄木の墓が函館にあるのかとの疑問が持ち上がる。
しかし、啄木が亡くなった翌年の3月23日に節子婦人の意志で、遺骨を函館に移し、立待岬に葬ったということだ。郁雨は大正15年8月1日、独力で立待岬に壮麗な啄木一族の墓を建てた。この時、啄木の妹・光子は『石川一族の墓を東京に』を願い終生、函館の墓地建設に反対したいう。啄木に絶交を宣言された郁雨は、それでも生涯啄木とその妻を愛し、啄木一族の墓を守り続けたという。郁雨を自分に置き換えてみたらどうだろう・・・
こんな事は到底真似のできることではないと思いながら、郁雨の人柄を思い浮かべてみた。
しかしながら、「石をもて追るるごとく・・・」に故郷を離れた啄木の心の奥底には望郷の念が疼いていたように思う。
○病のごと 思郷のこころ湧く日なり 目にあをぞらの煙かなしも
○今日もまた胸に痛みあり。 死ぬならば ふるさとに行きて死なむと思ふ。
それから長い月日が流れ、昭和36年6月11日、啄木の父一禎の35回忌に当たって啄木の遺骨が函館の石川家墓地から故郷渋民の宝徳寺墓所に分骨されたという。こうして啄木の遺骨が故郷に帰って来た訳ではあるが、啄木が北海道に渡るきっかけとなった“父一禎の宝徳寺住職への復職に反対した一派”の一族は素直に受け入れたのであろうか・・・
秋田の山深い村で育った私は、因習や怨念の根深さを今でも身に沁みて知っている。
啄木は函館の大火に合い小樽へ移り住み、札幌、釧路と北海道を1年にわたり流浪したが、どうしても文学への情熱が捨て難く家族を小樽に残したまま東京へ向かった。その時、同郷の金田一京助の世話で本郷の東大近くに下宿し、その後家族を呼んで住んだのが、本郷弓町の“喜之床(新井理容店)”の2階である。実は、この新井理容店は地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅から秩父セメンントへの通勤路に面していたので、散髪に行き頼み込んで啄木が間借りしていた2階を見せてもらったことがある。その時は当時のままであったが、道路の拡幅工事で取り壊されて明治村に移築されたそうである。その後、啄木一家は本郷小石川の久堅町の借家に移り、啄木は金田一京助、若山牧水に看取られながら行年27歳の生涯を終えたのである。
どうも私の興味本位に啄木のことを書き過ぎたが、函館にはまだまだ見所がある。
函館にはIBMのコンベンションで2回ほど行ったが、赤レンガ倉庫と朝市が印象に残っている。朝市での“いかそうめん”は美味しかった・・・
朝市で夕張メロンを見つけてお土産に送ったのを
覚えている。またトラピスチヌ修道院のバター飴
も旨かったよ・・・
今から同期会の翌日の函館観光も楽しみにして
おります。
以上
参考文献:[人生の旅人・啄木] 岡田 喜秋著 秀作社出版
コメントをお書きください
渡部 雅幸 (日曜日, 20 7月 2014 22:36)
小南さん
函館への想い、確かに函館は印象に残る街です。るるぶ豊かです。
路面電車の音が・・・・懐かしい。
飛行機、青函トンネルと北海道も楽に訪れる事が出来るようになりました。私たちの世代は青森⇔函館 青函連絡船の懐かしさがあります
函館での再会を楽しみにしています。
2014年7月20日 渡部
小南 毅 (月曜日, 21 7月 2014 12:03)
○「函館に想いを馳せて」の雑文にコメント寄せし友の気遣い
ありがとうございます・・・
飛世政和 (月曜日, 21 7月 2014 12:49)
小南さんのHP凄いですね
ws-slidshowつかってるの?時間あるとき スカイプで教えてくれない?<m(__)m>
武田謙太朗 (月曜日, 21 7月 2014 17:44)
会長の函館に賭ける思いが伝わり、鳥肌が立ちました。
啄木の事をよく調べておいでですね、とても勉強になりました。
学生時代に熊谷君の家を訪ね、お世話になったが、パチンコ屋で干支を聞かれ、成程、年を聞かずに干支で攻めるか!と補導員のおばさんに感心したものだ。会社の連中とも何度か函館に足を運んだが、何時行っても良いところだ、今度も楽しみだ。
大川憲夫 (火曜日, 22 7月 2014 16:29)
私は昭和58年から平成8年ごろまで札幌に住んでまして、函館は仕事で年に何度も行きました。函館で最初に行ったのは「土方歳三最後の地」だったことを憶えています。同級会楽しみにしてます。
國吉克哉 (土曜日, 23 8月 2014 19:26)
同窓会へ出席できず、申し訳ありません。
函館には鮮烈な思い出があります。夏休み、五稜郭へのバスに乗っていて停留所で色白の女性を見かけ、この人だと電気が走りました。バスは無常にも動き出し、それっきりですが、後にも先にも電気が走ったのはこの時だけです。50年の歳月は憎たらしく、彼女の顔を思い出すことはできません。
飛世政和 (日曜日, 07 9月 2014 10:28)
来年は沖縄で同期会と一人だけ思っています
ogurajunichi (月曜日, 22 9月 2014 22:07)
函館へは5年前の9月末に家族で行きました。
夜の函館山で強い風に吹かれ、寒い思いをした記憶があります。
しかし、夜景は明るくきれいでした。
宿は漁火通りのホテルでした。本州の下北、津軽の明りが見えました。
定期観光バスで大沼、トラピスト、男爵資料館、昆布館等に行きました
元町散策、赤レンガ倉庫群でのショッピングもしました。